当ブログ管理人「しんぐう」の詳細プロフィールです。当ブログの記事やTwitterやYouTubeチャンネルなどで僕を知り、「何者だこいつ?」と思ってたどりついた方はぜひ最後まで読んでみてください。
目次
しんぐうのプロフィール 生い立ち
1986年生まれ。血液型はO型。
4人兄弟の末っ子で、双子の兄がいます。
名前は祖父がつけてくれて、兄は優一、二人合わせて「優秀」。
二人合わせないと優秀ではない?と小さい頃によく言われていた。
名古屋市の端っこ「不良だらけの団地」で育つ
愛知県名古屋市の隅っこにある団地で育ちました。
周りは不良だらけで、族車やタバコ、シンナーを吸っているような不良が多く住んでいるような団地でした。
近くの中学校では、窓ガラスが何十枚も破られるなど、不良行為が起きていました。
そんな環境でしたが、一切擦れることなく真面目に育ちました。
ただ、家で勉強をする習慣などはほとんどなく、算数のテストで「6点」とか、「4点」など一桁台を連発するような、いわゆる落ちこぼれでした。
勉強しないくせに、なんで自分はテストでこんな点数しか取れないんだ!と悔し涙を流したのを覚えています。
小さな団地でしたので、同級生はみんな仲がよく、貧しいながらも何かと幸せに暮らしていました。
ちなみにこの団地には小学校を卒業するまで住んでいて、その後両親の都合により、豊田市の隣町に引っ越しました。
父親の借金と親の離婚
私の父親は、小さな喫茶店を名古屋でやっていました。
コーヒーやサンドイッチなどの軽食やモーニングを提供するだけの小さなお店です。
小さいながら、料理を作る父の姿が大好きで尊敬していました。
しかし、父親は大学卒業後そのまま飲食店に就職したため、ビジネスの知識やマーケティングの「マ」の字もほとんど知らないビジネスのど素人です。
初めはうまくいっていた喫茶店経営も、バブル崩壊や時代の変化に対応できず経営が困窮し、薄利多売を続けた結果過労により父親は入院。
最終的にお店を畳むことになりました。
当時の私は小学校低学年くらいでしたので、その頃の記憶はほとんどありませんが、父親の仕事が色々変わっていた、ということだけは覚えています。
父親は、借金返済途中にお店を畳んだため、当然借り入れも大分あったと思います。
母親が夜に働きに出るなどして、4人兄弟を育ててくれました。
この電子書籍でも書きましたが、その頃は「水かけご飯を食べるなど」、相当に貧しい生活をしていましたが、兄弟仲良くすごくのびのびと暮らしていたと思います。
普通すぎて悶々としていた中学・高校時代
小学校、中学校ではサッカー部に所属し、「声が大きい」というだけでレギュラーをとっていました。
ただ、勉強も冴えない。スポーツもイマイチパッとしない。
そんなどこにでもいる、普通の学生でコンプレックスを感じていました。
しかも、高校受験に失敗して市内の公立高校では最も低い高校に通うことになります。
僕が入学した高校は(いまでは違うと思いますが・・)、市内の不良が多く通う高校で、映画のクローズに近い不良の巣窟。みたいなところでした。(というか、当時の自分にはそう見えていました)
金髪、赤色の髪の毛、カツアゲ、タバコ・・などは日常茶飯事w
という感じの荒れっぷりで、自分は絶対こうはならない!
という反骨心で勉強とスポーツだけは頑張ろうと思っていました。
勉強も初めは学年中半分くらいでしたが、独学で学年トップになり、卒業する頃には成績はオール5を獲得。
部活でも、高校からカヌー部に入り、2年生の頃には全国大会に出場することもできました。
ちなみに、東京オリンピックの代表候補になっている、カヌーの松下選手とは、大会後に一緒にサウナに入った仲です(たぶん、僕しか覚えていないと思いますが・・汗)。
大学は奇跡の国立大学合格
荒れた高校でトップの成績を取り、自分でもびっくりの国立大学に合格しました。
一般入試ではなく、AO入試での合格でした。
カヌー部では短期間で全国大会に出場し、何度も表彰され、
大学受験ではAO入試という裏技みたいな方法で国立大学に底辺高校から合格という奇跡みたいなことを経験し、【人生はやり方次第】で全く違った結果が出る。ということを体験する。
大学時代は、ヒップホップダンスに目覚め、バイトはそこそこに毎日のようにクラブに行って踊ったり路上で練習していました。
ただ、この頃から将来は起業したい!と決めていたので、ビジネス本だけはたくさん買ってやたらと読んでしましたね。
就職後に社会の現実を知り絶望
工学部でしたが、将来起業を考えていましたので、インターネットやプログラミングができるようになりたい!ということで、未経験からSE(システムエンジニア)になれる会社の試験を受けなんとか合格しました。
しかし、SEと一言で言っても様々です。
私が就職会社が主に扱っていたのは、汎用機系のシステム(言語はCOBOL)で、現在でもまだ使われていますが、今後は衰退する一方。という化石みたいなシステムの開発保守をしていました。
これでは将来起業することは難しいということに入社後気づき、情報収集を始めます。
そんな時に勤めている会社が吸収合併されることがわかりました。
当時の私は、同期の女性(今の妻)と入社1年目にまさかのデキ婚で結婚し、第一子を授かっていました。
会社が吸収されるということで、産休中だった妻は会社から、解雇通達を受けるなどマタハラを受けましたが、まだ会社に務めている私は何も言い返すことができませんでした。
そんな時に起きたのが、東日本大震災です。
震度6の強い揺れが起きているのに、デスク下に避難することなくパソコンを打ち続ける上司の姿を見たとき絶望し、自分はこうなってはいけない!
と強く心に刻みました。
独立失敗からの営業会社で地獄を見る
その後、悩みに悩んだ末に会社を脱サラし、ネットショップをやるため独立するもあえなく失敗。
半年間で再び就職しました。
借金などがなかったのが唯一の救いでした。
就職したのは通信機器の営業会社。
今考えると完全にブラック企業で、1日400件テレアポしていました。
ノルマもキツく、嫌味な上司になじられ詰められて精神を病んだこともあります。
ただ、短期間でコツをつかみ、成績上位を獲得し退職。
その後、再びネットビジネスで再起を図るため、転職しサラリーマンの傍、副業を開始しました。
社畜サラリーマンから始めた副業で起死回生
違う職種に転職経験がある方はわかると思いますが、職種が変わると仕事のルールがまるっきり違います。
挨拶一つとっても、正解がまるっきり異なるので注意が必要です。
3社目に入社した会社では、お金を扱う会社だったため、数字さえ持ってくればOKだった営業会社とはまるっきりルールが違い、非常に苦労しました。
あまりにもルールが違いすぎて戸惑い、失敗の連続で入社早々に「使えない奴」判定されてしまいました。
地獄はこれからでした。
上司から度重なる叱責や長時間に及ぶ説教など。
仕事の覚えが悪かった自分が悪いとはいえ、非常に精神的に辛い思いをしました。
当時は心が病み、遠くを見て「理由もなく涙が溢れてくる」という精神状態で辛かったのですが、この経験を経たことで、マインド、スキルあらゆる面を鍛えていただいたと感謝しています。
また、この辛い状況をいち早く脱したい!という一心で副業にがむしゃらに取り組み結果を出しました。
副業を開始して3年でサラリーマンの年収(当時は年収400万円いただいていました)の約5倍を1ヶ月で稼ぐことに成功しました。
この段階で再び脱サラし会社を設立。
今に至るという感じです。
そしてその1年後に、保有していた1サイトを売却し、億の資産を手にすることができました。
人権を取り戻すことを決意
全てのサラリーマンがそうとは言いませんが、基本的に会社に務めに行って給料をいただく、という過程には、「多くの理不尽に耐えることが必要」です。
私自身も、上司に1時間以上個室に連れていかれ恫喝を受けたり、胸ぐらを掴まれたり、椅子を蹴飛ばされたり・・されました。
また、マンションを購入したら、転勤を言い渡されたり・・なども。
会社に収入を依存している以上、基本どんな指令でも従わざるおえないのがサラリーマンという生き物です。
そんな状況は本来あるべき姿ではない!と確信しているので、私はサラリーマンに【副業をして給料以外の収入源を得ること】で人権を取り戻して欲しいと思っています。
給料以外に収入を得る手段があれば、会社に依存することがなくなります。
そうなれば、自分が生きたいように、やりたいことに取り組める人生にできます。
そういう人が少しでも増える世の中になって欲しいと本気で願っています。
プロフィールを最後までご覧いただきありがとうございます。
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